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写佛会洛陽三十三所観音霊場・第二十二番札所
京都市の納骨堂なら京都駅八条口より徒歩8分の城興寺

城興寺について

歴史の栄枯盛衰 東九条の名刹

城興寺古伽藍図
【城興寺古伽藍図】

瑞寶山城興寺と号し、真言宗泉涌寺派の寺ですが、もとは四宗(顕・密・禅・律)兼学の道場で比叡山の管理に属していました。

平安の昔、藤原道長の孫で九条太政大臣と呼ばれていた藤原信長(1023~1094)は四至を現在の竹田街道・室町通・九条大路・東寺道とする広大な地に彼の邸宅九条殿を構えていました。そして応徳二年(1085)邸内に丈六佛を安置する九条堂を建て、城興院と名づけました。

三代後の関白藤原忠実(1077~1162)がこの地を伝領(相続)し、永久元年(1113)ここに寺院を建立して城興寺とし、十年後には数々の堂塔伽藍も完成し、保安三年(1123)白川法皇の院宣をもって盛大な伽藍供養が行われました。

『城興寺古伽藍図』に見る当時の寺容は、周囲を築地塀で囲い、九条大路に面して南大門が、中央一列に放生池・仁王門・金堂・講堂と、東側に多宝塔と鐘楼が、西側に御影堂、北側には庫裡や数々の僧坊など、堂塔伽藍が建ち並ぶ立派なお寺でした。

その後、天台座主最雲親王法親王(白河法皇の子)がこの寺を領ていましたが没後その弟子以仁王がこれを伝領。しかし、平清盛が治承三年(1179)のクーデターでその知行権を没収して他に与えました。そのことが平家討伐「以仁王の宣旨」の大きな原因となりました。


洛陽三十三所観音霊場めぐり 第二十二番札所

城興寺

中世、平安の都は荒廃し、東九条は次第に京外となり城興寺も衰退し、さらに応仁の乱で焼亡して全く昔日の感を失いました。そしてうち続く戦乱に烏丸通りぞいに濠を構えてわずかに自衛しました。

江戸時代、庶民の間に信仰と遊山の目的で「洛陽三十三ケ所観音霊場めぐり」が盛んになって、当寺の本尊千手観音(秘仏)は第二十二番札所として、善男善女で大いににぎわいました。本尊千手観音は、慈覚大師円仁(794~864)が承和五年(838)、遣唐使の一員として入唐した時、無事の帰朝を念じて船中で造作した観音さまです。


城興寺の仏像

本尊千手観世音菩薩(秘仏) 慈覚大師作

本尊千手観世音菩薩は、慈覚大師円仁(794~864)が承和五年(838)、遣唐使の一員として入唐した時、無事の帰朝を念じて船中で造作した観音さまです。

薬師如来 弘法大師作

天長六年全国に大疫病流行し、淳和天皇が弘法大師に祈祷を命じ、大師勅を受け此の尊像を作り祈祷し給ふに大疫忽ちにやむ。

不動明王 作者不明

平安末期の作

大日如来

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